社外の勉強会で発表会が終わり、ひと段落が付いたのでのんびりの土曜日。Gyao!にて初めて観ました。自分の知らない時代。自分の知らない世界。もっと時代背景が分かるように、勉強しておけばよかった、時間の有り余っていた学生時代にもっと旅行に行けばよかったとも思います。もちろん映画なので、監督の思想や、監督の考え方に寄せて記録されるわけですが、総じてみてよかったと感じました。
しつけについて考える
飽食の時代、戦争を経験した世代が目指した世界なのでしょうか。私にはそうではなかったのではないか、と思えてならない。風呂に入らなかったり、そもそも風呂屋に行かなければならなかったり、でも小学生くらいの姉妹二人でお風呂屋さんまで行けるというしつけの行き届いているところ、それができる安全な社会、どこに落としてきたのでしょうか。聞き分けのない妹をいさめる場面がいくつも出てきましたが、今の時代であればちっとも聞き分けがないとは思えないようなことのように思いました。
「ある時払い」
この時代、持ちつ持たれつだったのでしょうか。困っているときはお互い様という助け合いの精神というのでしょうか。言葉に起こすと安っぽく聞こえてしまいますが、みんながつらい時世、マウントを取りたいとか、そんなつまらないことではなく、本心でそのようなことを行っていたのでしょうか。誰かのために力になること、大切ですね。
見栄と本音
見栄というかプライドというか、悪い意味ではなく持つべきものではないかと思いました。家の人が馬鹿にされ、あるいは自分の意にそぐわないそんな時にぺこぺこしたりはしない、母べえは強い人だったようです。それが夫の恩師であっても、自分の父親であっても。それでも、カステラや肉を欲しがる子供には非はなく、というか、いただけるものはいただきたいというのか、みっともないような話ではなく、崩してはならない守らなければならない基準、レベルが高かったんですかね。甘ちゃんな私も見習わなければと思います。
人間味
鶴瓶さんの演じる役にも、自分の懐を広く広げているからこそ、相手にも少し図々しいくらいに詰め寄ってしまうところ、そうはいっても一線は越えず、踏み越えてしまった時の反省の姿は、人間味があり良いものだなと思いました。
強さ
自分のしたいことを続ける力、思っていることを口にすることのできる力、これまでの人生を振り返ると、今までの私には少ないのではないだろうかと思います。軸を太く持ちたいですね。
受け入れる
檀れいさん、つやがあり、好きになりました(笑)。急に下世話な話になってしまったけども。。この時代なのか、それとも監督の思想なのかはわからないですが、もちろん好きなのだけれども叶わぬものはあきらめる「清貧」という言葉で表せばよいのでしょうか。サバサバしているというものではなく、軽々しくあきらめるというものでもなく「受け入れる」そんな役回りでした。
生きること
死についての扱いも、主役と端役では異なるようにも感じましたが、それを見せることに意味のある人とない人という分け方というよりも、それはどこにでもあるもので、特に意味を持たせたい人に焦点を当てたのだと、勝手に思っています。