nakamurk’s diary

日々思うことは残していきます。しっかり生きます。

映画「髪結いの亭主」(2019/07/21、Gyao!にて)

例にもれず、週末の息抜きにGyao!にて映画鑑賞。こちらの映画を観て感じたことを書いていきますが、勘ぐっているような記載もあるかもしれませんので悪しからず。。そして、ネタバレな感もありますので、ご注意ください。

まずは言葉の定義から

髪結いは床屋さんのことですね。そして女性でも生計を立てていくことができる数少ない職業とのこと。髪結いの亭主、こちらですがいわゆるヒモのことなのですね。見終わってから調べましたが、確かに主人公の男性は働いている感じがしませんし、子供の頃の回想シーンで親に将来の夢は何かと聞かれ、髪結いの亭主になると答えると即刻ビンタされてしまいます。

二人の髪結いの女性

幼少期の回想シーンと、現在のシーンにそれぞれ髪結いを生業とする女性が出てきます。幼少期に恋をする髪結いの女性は、私の好みの問題かもしれませんが、ふくよかで愛嬌のある方だと思いますが、二人目のヒロインのように美人という分類とは別であったように思います。しかしながら、子供心に大人の女性に恋をして、おやじにビンタをされても呆けてしまえる程に、この髪結いの女性を好きだったのでしょうか。割れたガラスを踏み越えて、床屋の椅子に座る少年の目には、そこにいることに対する執着が見られるようでした。独り身と言うのか、髪結いの仕事をしている女性というのは、社会的に弱者だったということなのでしょうか。最終的には破滅的な人生をたどることになるこの二人の女性ですが、そんな不安な状況に耐えられなかったのでしょうか、と思う次第です。

愛の形

まず、こちらの映画は、親子で見ない方が良いでしょう。濃厚にそういった描写が描かれています。フランス映画というものは、こういうものなのでしょうか?1990年の作品で、フランスが舞台ということで、まったく背景をイメージできないのですが、性に対して大らかと言えばいいのか、現代社会では非難されかねない表現の仕方をしていたりするわけで、そういうのはどうなのかなと。

特に思うこと

ここから特に勘繰ったことを書きますが、主人公について、中程度の精神障害があるのではないかと感じたんですね。言葉は話せるし、クロスワードパズルをやるくらいの知能もあるし、散髪屋さんでの計算もできる。それなりに会話もできるのですが、周りの世界を受け入れているように見えて、自分の世界で話が完結してしまうところや、奥さんの不幸に対する反応が、あくまでもこれまでの生活の延長線上に見えて、あくまでも髪結いの女性と結婚したに過ぎないのではと思ってしまうますね。自分のこだわりで、スパッとこれまでの行動をやめてしまうところや、最後の洗髪のシーンで泡を流すのが中途半端だったのにごまかすところとか。途中に出てくる散髪を嫌がる子供への対応や最後のダンスのシーンの男ともコミュニケーションを交わすところは、お互いに何かしら障害のある人だったのではないかと思ってしまいました。そう考えるとみている最中に引っ掛かっていた違和感が、スッと解決するように思います。もしかしたらただの思い違いかもしれませんが。。今日はこんなところで。